緊急避難の法的性質甲に成立の罪責及び不可罰とする根拠 緊急避難は違法性阻却事由である。 緊急避難は責任阻却事由である。 緊急避難は原則として違法性阻却事由であるが、法益が同等の場合は責任阻却事由である。 船が、難破して海に投げ出された客船のう…

まとめ

これ以後、フランスはナポレオンが皇帝となるナポレオン帝政の時代に入っていきますが、日本国憲法との関係では、この市民革命の話までが重要ですので、フランスの歴史については、このあたりにしておきます。 このフランス革命については、長々と話をしてき…

テルミドールのクーデターと総裁政府

革命政府が、国外や国内で勝利を得た1794年の段階で、モンターニュ派の中で指導者間の対立と不信が表面化しました。パリのサンキュロットの間に支持者が多かったエベール派は、民衆の過激な行動を扇動し、非キリスト教運動を進めて、銀行課の逮捕など過激な…

モンターニュ派(山岳党)の独裁と恐怖政治

独裁権を握ったモンターニュ派は、亡命者財産の売却、共有地分割法などで、土地を農民に分配し、1793年憲法を制定し、封建的諸特権の無償廃止を決定しました。1793年の封建的諸特権廃止では、封建地代は有償廃止であったので、93年のこの憲法はジャコバン憲…

第一共和政の成立と、内外の危機

1792年8月末から9月初めに普通選挙により議員が選ばれ、国民公会が成立した。国民公会は王政廃止と共和政(第一共和政)の樹立を宣言しました。立憲君主派は姿を消し、共和派のみとなった国民公会では議場の右のジロンド派と、議場の左のモンターニュ派(山…

立法議会の成立

1791年10月、新憲法による選挙で一院制の立法議会が成立しました。立法議会では、右翼に立憲君主派のフイヤン派が、左翼に共和政を主張するジャコバン派が陣取っていました。さらに、このジャコバン派には、小市民を支持基盤とする左派と、中産市民層を代表…

フランスの市民革命の流れ(その5)

フランスの憲法制定

国王が8月の法令の裁可を遅らせ、パリの食糧事情が悪化したことで、10月4日〜5日にまた民衆の行動が行われます。国王にパンを要求するパリの中央市場、場末街(ばすえがい)の女性達はこの日パリからヴェルサイユへ行進し、宮殿に乱入、国王一家をパリに連れ…

フランスの市民革命の流れ(その4)

フランスの憲法制定

国王が8月の法令の裁可を遅らせ、パリの食糧事情が悪化したことで、10月4日〜5日にまた民衆の行動が行われます。国王にパンを要求するパリの中央市場、場末街(ばすえがい)の女性達はこの日パリからヴェルサイユへ行進し、宮殿に乱入、国王一家をパリに連れ…

フランス人権宣言の採択

バスティーユ襲撃事件そのものは囚人を7人を解放した程度で、都市騒乱としてとるにたらない事件の思えましたが、革命に市民が介入したという象徴的意味や政治的影響力は大きいものでした。 1789年7月16日に財務長官をクビにされたネッケルが呼び戻され。7月…

フランス革命の流れ(その3)

フランスの市民革命

フランス革命の流れ(その2)

三部会は1789年5月5日にヴェルサイユで開かれ、その議員の数は、第一・第二身分議員がそれぞれ約300名、第三身分議員が約600名、合計約1200名でした。聖職者議員の中には、改革に理解を示す下級聖職者も多く、第三身分の中には、ミラボーやシエイエス神父な…

フランスの市民革命

フランス革命の流れ(その1)

旧制度(アンシャン=レジーム)と呼ばれるフランス革命前の社会は、その正当性をほとんど失っていた伝統的な身分制度を残していました。第一身分の聖職者、第二身分の貴族様々な特権を持つのに対して、市民や農民等の第三身分の平民は生産し、経済を支えて…

フランスの市民革命

フランス革命の流れ

それでは、本日はベルサイユの薔薇で有名な、フランス革命の流れについて説明したいと思います。先日、アメリカ独立宣言がこのフランス革命について影響を与えたことを、お話しました。この結びつきについて詳しくお話したいとおもいます。 このブログの説明…

フランスの市民革命

アメリカの政治システム

アメリカの政治システムはこのアメリカ独立戦争の動きの中で生まれました。ですから、アメリカの政治システムについてもここで説明したいと思います。 先に説明したとおり、植民地たるアメリカに対して、イギリス本国が高い税金を課すようになりました。そこ…

アメリカの市民革命についての考察

先日も話をしましたが、このアメリカの市民革命具体的にはアメリカ独立宣言で、現代に言われる人権の内容に近いものができあがりました。 このアメリカ独立宣言には、生命・財産および幸福追求の権利という自然権(法ができる前から天から自然に与えられた権…

アメリカの市民革命

市民革命の流れ

1620年、スチュアート朝の絶対王政から逃れ、信仰の自由を求めてイギリスの清教徒(ピューリタン)が、メインフラワー号に乗ってヴァージニアの北部に渡航し、この時メインフラワー号上で、代議政治の確立を誓約し、その後、1732年までに、13の植民地がアメ…

アメリカの市民革命

考察

先日、イギリスにおける市民革命は、人権の発生となる出来事と話ましたが、しかしその内容は現在の我々が知っているような人権の内容とは違っていることに注意する必要があります。 まず、1215年のマグナカルタについては、王に対する諸侯が身分の特権を守る…

イギリスの市民革命の考察

考察

このように、イギリスの市民革命は、人権の発生の歴史でもあるといえます、そこでこれからは人権の歴史という側面も意識しつつ述べていきたいと思います。

イギリスの市民革命

市民革命の流れ

それでは、このイギリスの市民革命について説明したいと思います。まず、1215年のマグナカルタが出されます。これは、王に対して諸侯たる貴族が、自分の身分の特権を保障するために作った一番古い憲法と言われているものです。 そして1628年、市民派は権利請…

イギリスの市民革命