モンターニュ派(山岳党)の独裁と恐怖政治

 独裁権を握ったモンターニュ派は、亡命者財産の売却、共有地分割法などで、土地を農民に分配し、1793年憲法を制定し、封建的諸特権の無償廃止を決定しました。1793年の封建的諸特権廃止では、封建地代は有償廃止であったので、93年のこの憲法ジャコバン憲法と呼ばれ、革命期の中でも、最も民主的な内容を持つもので、人気投票で採択が決められました。しかし、革命権まで保障したこの憲法は、平和が到来するまで実施が延期されることになり、結局実施されずに終わりました。
 このころ、国内では政治的にも、経済的にも、混乱が続いていました。地方都市ではジロンド派の蜂起がおこなわれ、対仏大同盟の軍隊はフランスに侵入し、国民総徴用例がだされました。インフレや小麦不足も深刻でした。
 このような、危機に対応するために非常措置が強化され、恐怖政治が行われました。公安員会は、権限が強化され、強力な独裁政治の執行機関となりました。さらに、反革命容疑者の逮捕、裁判の促進が図られ、革命委員会はあらかじめ容疑者リストを作成しました。
 王妃マリ=アントワネットが10月に処刑された後、ジロンド派指導者の処刑が続きました。さらに、最高価格令が出され、生活必需品、労働賃金の価格統制が行われました。古い伝統がひていされて、革命暦が制定され、非キリスト教運動の展開の中、理想が崇拝の対象になっていきました。
 93年末には事態は好転し、外国進入軍は撃退され、国内の反革命内乱も鎮圧されていきました。