フランス革命の流れ(その2)

三部会は1789年5月5日にヴェルサイユで開かれ、その議員の数は、第一・第二身分議員がそれぞれ約300名、第三身分議員が約600名、合計約1200名でした。聖職者議員の中には、改革に理解を示す下級聖職者も多く、第三身分の中には、ミラボーやシエイエス神父など、他の身分から離脱して選出されたものも多くいました。
 この、第三身分議員は、自分達こそが国民を代表しているとして、1789年6月17日みずからの会を「国民議会」と宣言します。さらに、6月20日、第三身分議員は議場が閉鎖されたので、宮殿の球戯場に集まり、憲法を制定するまで解散しないことを、ほぼ満場一致で宣誓しました、これを球戯場(テニスコート)の誓いといいます。
 国王は、聖職者と貴族に第三身分と合流することを勧告し、国民議会を承認します(6月27日)。このとき、国民議会は正式に憲法制定国民議会と名前を変えて憲法制定にとりかかります(7月9日)。この国民議会の成立は革命的なものでしたが、最終的には国王の承認をえて、法にしたがってつくられたものでしたので、庶民の力だけで作られたものではありませんでした。
 このような情勢の中、国王の側で働く役人の人たちは、国王にもっと強硬で、強引な態度をとらせようとしました。その結果、国王は、ヴェルサイユに軍隊を集結させ、財務長官のネッケルを罷免(クビ)にしました(7月11日)。
 温厚で優柔不断な国王ルイ16世には、断固とした方針も戦略もありませんでしたが、軍隊の威嚇(軍隊の武力にたいする不安と恐怖)を感じたパリでは,市民の騒ぎが過熱していきました。
 7月12日、デモは武器製造書の略奪や入市税関所の放火などの騒乱に変わり、秩序維持のため都市民兵(国民衛兵)が編成されました。7月14日群衆は廃兵院で小銃と大砲を奪い、武器と弾薬があると思われたバスティーユ監獄を襲撃しました。
 そして、監獄が占拠された後、革命最初の虐殺がおこなわれ、このときバスティーユ司令官・パリ市長が犠牲となりました。


参考文献

ベルサイユのばら
フランスの市民革命関連書
理解を深める文献
日本国憲法関連書


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