立法議会の成立

 1791年10月、新憲法による選挙で一院制立法議会が成立しました。立法議会では、右翼に立憲君主派のフイヤン派が、左翼に共和政を主張するジャコバン派が陣取っていました。さらに、このジャコバン派には、小市民を支持基盤とする左派と、中産市民層を代表する穏健派がいました。
 左派は、議会の最左翼の高い所の議席を占めていたので、モンターニュ派山岳党)と呼ばれていました。一方、穏健派はジロンド県出身の議員が多くいたので、後にジロンド派として呼ばれ、ジャコバン派から分離し、両者は対立するようになりました。
 このとき、ヨーロッパ各国の君主は、フランスの亡命貴族のはたらきかけもあり、フランス革命の進展に警戒心を強めていきます。そこで、1791年8月プロイセン国王とオーストリア皇帝はドレスデン近くのピルニッツ宣言をだし、フランスに対する行動の決意を告げます。
 これに対して、立憲君主派とジャコバン左派は戦争には慎重だったものの、ジロンド派は革命を強化できると考えて開戦を主張し、開戦を望むフランス国王によって組閣を委ねられたました。このとき、国王は、戦争に勝てば王の威信を高めれれることと、逆に諸外国の君主が勝てば革命が崩壊することを期待して戦争を望んでいました。
 そこで、1794年4月、フランスはオーストラリアに宣戦布告しました。プロイセンはオーストラリアと結びました。フランス軍は、国内が混乱状態にあり、準備不足であったフランス軍は劣勢ででした。このことが原因で、ジロンド派で組織された内閣は罷免され、替わってフイヤン派内閣が成立しますが、プロイセン、オーストラリア同盟軍はフランス国境に迫っていました。
 7月11日、立法議会は「祖国の危機」を宣言し義勇兵を全国で募集しました。さらに、フランスのナショナリズムが高揚し、地方からパリに義勇兵がぞくぞくと結集しました。
 7月25日、プロイセン軍司令官ブラウンシュバイツ公はコンブレンツで宣言を発し、フランス国王に危害が加えられればパリ市を破壊すると警告した。この宣言は、後に王政を瓦解を早める結果ととなります。ジャコバン派とパリの各地区の市民は国王の廃位を要求します。
 8月10日、パリ民衆と義勇兵は、チュイルリー宮殿攻撃し、宮殿を警護していたスイス衛兵は惨殺されました。このとき、議会は民衆の圧力に屈して、王権を停止し、普通選挙による憲法制定議会となる国民公会の招集を布告しました。