市民革命の流れ

 それでは、このイギリスの市民革命について説明したいと思います。まず、1215年のマグナカルタが出されます。これは、王に対して諸侯たる貴族が、自分の身分の特権を保障するために作った一番古い憲法と言われているものです。
 そして1628年、市民派権利請願を提出するも、チャールズ1世はこれに反対をしたため、1649年に、専制君主のチャールズ1世を処刑し、自由共和国を宣言して、共和政を成立させます、この一連の動きを清教徒革命(ピューリタン革命)といいます。
 しかしながら、この清教徒革命の後に、クロムウェルの率いる独立派の独裁政治が始まり民衆の反感をかい、再び王政復古につながります。具体的には、王党派はクロムウェルの死後、その息子の政治が不評であることに乗じて、1660年フランスに亡命していたチャールズ1世の子チャールズ2世をイギリスへ呼び戻し王政が再び始まる事になります。
 もっとも、この後の国王ジェームス2世の政治も専制的であったこと、イギリスの国教とは異なるカトリックの復古を意図しているとの疑惑も合わさって、1688年、議会は一致して、ジェームス2世をフランスに追放し、代わって、王女メアリとその夫であるウィリアム3世を、共同統治の王ととして迎えることになります。そして、この二人の王が、議会が提出した「権利の宣言」を承認し、「権利章典」として発布しました。
 そして、この権利章典によって、国王の権利が大幅に制限され、議会が主権を握る立憲王政が確立して、絶対王政は消滅することになります。
 この権利章典による革命のことを名誉革命といい、始めの清教徒革命と合わせて、イギリスの市民革命と呼びます。



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