第一共和政の成立と、内外の危機

 1792年8月末から9月初めに普通選挙により議員が選ばれ、国民公会が成立した。国民公会は王政廃止と共和政(第一共和政)の樹立を宣言しました。立憲君主派は姿を消し、共和派のみとなった国民公会では議場の右のジロンド派と、議場の左のモンターニュ派(山岳党)が敵対しました。そして、じゃこばん派はモンターニュ派が支配していました。このとき、ジャコバン派の穏健な中間グループは平原派と呼ばれ、両派の間を揺れ動き情勢を左右しました。
 国王は、公的自由に対する陰謀と国家の安全の侵犯により、数名の危険を除き満場一致で有罪とされました。モンターニュ派の提案した国王の死刑が可決され、ジロンド派の提案した、死刑執行の延期は否決されました。
 1793年1月、革命広場(後の、コンコルド広場)で、ギロチンによるルイ16世の処刑がおこなわれました。
 革命軍の攻勢と国王の処刑は、イギリスをはじめとする、ヨーロッパ諸国の革命への敵意と警戒心を強めていきます。イギリスのピット首相の呼びかけで、93年第1回対仏大同盟が結成されました。
 フランス国内では、ヴァンデ県で王政派が指導する農民の反乱がおこり、インフレと買占めと食糧難から民衆の不満が高まってました。国民公会モンターニュ派は、反革命を抑えるために、革命防衛のための改革を進めました。この改革の中身として、革命裁判所、監視委員会、国民公会の委員で構成する公安委員会などが設置されました。、この公安委員会は、行政活動を監視、促進を目指すものでありましたが、しだいに権限を強めていきました。
 ジロンド派はこのような措置に反対しましたが、モンターニュ派は93年6月のパリのサンキュロットの武装兵力に国民公会を包囲させ、ジロンド派議員を追放し、独裁権を握りました。ジロンド葉の議員や大臣の多くは逮捕され、処刑されました。