市民革命の流れ

1620年、スチュアート朝絶対王政から逃れ、信仰の自由を求めてイギリスの清教徒ピューリタン)が、メインフラワー号に乗ってヴァージニアの北部に渡航し、この時メインフラワー号上で、代議政治の確立を誓約し、その後、1732年までに、13の植民地がアメリカ大陸に成立します。
 また、この時同時にフランスもアメリカ大陸での植民地を開始していたので、イギリス、フランスは数回の植民地争奪戦を繰り返し、七年戦争(1756〜1763)では、イギリス人は、フランス人、インディアンを相手に戦い(フレンチ=インディアン戦争)、最終的に勝利をおさめ、1763年のパリ条約でイギリスはカナダ・ミシシッピ川以東を獲得します。
 このように。植民地をイギリスや原住民のインディアンからの攻撃から守る必要性から、植民地自体にある程度の自衛力つけさせる必要があったため、ある程度の自由な貿易や製造業をなし、植民地の自治を認めていた。
 しかしながら、この七年戦争以後、フランスを排除したイギリス本国は、高い税金を課す等して、植民地に対する規制を強化し始めました。これに、反対する植民地は1774年第1回大陸会議を開き、イギリスの政策に抗議し、イギリス本国との通商を断絶するに至ります。
 そして、1775年4月にイギリス本国と殖民地民兵の最初の武力衝突が、ボストン郊外のレキシントンコンコードで起こり、アメリカ独立戦争が始まります。この、直後の5月、第2回大陸会議で、大陸軍が組織され、ジョージワシントンが最高司令官に任命されます。
 その後、1776年7月4日、大陸会議で独立宣言を採択し発布します。これが、有名な、アメリカ独立宣言です。
 さらに、1783年に、パリ条約が締結され、アメリカ合衆国の独立がイギリス本国により承認されることになります。
 このような、経過を経て、1787年に、アメリカ合衆国憲法が制定されることになります。
 


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