テルミドールのクーデターと総裁政府

 革命政府が、国外や国内で勝利を得た1794年の段階で、モンターニュ派の中で指導者間の対立と不信が表面化しました。パリのサンキュロットの間に支持者が多かったエベール派は、民衆の過激な行動を扇動し、非キリスト教運動を進めて、銀行課の逮捕など過激な主張を繰り返してきましたが、国民公会に対する蜂起計画を告発され、逮捕、処刑されました。一方、ダントン派は恐怖政治の緩和を要求しましたが、ダントンの汚職が摘発され、処刑されました。そんな中、公安委員会を指導するロベスピエールが独裁権を握り、恐怖政治は、ますます強化されていきます。具体的には、革命裁判の迅速化がはかられ、94年6月プレリアール法により、弁護、証人、予審を省いて行うことができるようなり、処刑者が激増していきました。
 しかし、革命戦争の勝利は逆に恐怖政治の正当性を困難にしていきました。ブルジョワジーは経済活動の自由を要求し、労働者は賃金統制に不満を持ち、他方で恐怖政治は腐敗と結びついていきました。土地を得た農民はそれ以上の革命の進展を望まず、保守化する傾向をみせました。
 公安委員会でも、ロベスピエールの独裁への反感が生まれ、国民公会ではロベスピエールより告発されることを恐れる腐敗分子が反ロベスピエール派を形成していきました。
 94年7月27日、革命暦テルミドール9日国民公会ロベスピエールを告発、ロベスピエール派の逮捕を決定しました。ロベスピエールらは、一度は支持者により釈放されたが、国民公会も部隊を集めてロベスピエール派を襲撃し逮捕し、裁判を経ずに直ちに処刑されました。
 このテルミドールのクーデターで恐怖政治は終止符が打たれ、国民公会では穏健派が主導権を握るようになりました。さらに、公安委員会の権限も縮小されて、プレリアール法も廃止されました。革命裁判所も改組されて、ジャコバン=クラブも閉鎖されました。
 しかし、革命政府は安定性、権力の集中性、反革命勢力の鎮圧力を失っていきました。価格統制も撤廃されて経済活動の自由が認められましたが、買占めや投機により、物価は高騰しました。これに反対する民衆(サンキュロット)運動は抑えられました。このとき。反革命派や王党派が勢いづき、恐怖政治の報復として、白色テロが横行しました。
 1975年、国民公会は新憲法を制定し、秩序の安定を図りました。財産額によって資格が制限された選挙で選ばれる二院制の議会と、5人の総裁により構成される政府がつくられることになりました。10月に成立した、総裁政府は共和政維持と社会秩序の回復を宣言しました、しかし、総裁政府は左右勢力の攻撃により動揺する不安定な政権でした。
 一方、王党派は総裁政府発足直前にパリで反乱をおこしましたが、これはナポレオン将軍に鎮圧されます。しかし、平等主義を唱えるバブーフは総裁政府打倒の計画が発覚し、左派右派は毎年のようにクーデターを繰り返した。対外的には軍事的勝利が続いていました。フランスはオランダを征服し、95年プロイセンと講和を結び、ナポレオンのイタリア遠征の勝利でオーストリアと97年カンポフォルミオの和約を結び、第1回対仏大同盟を崩壊させました。