社会 日本政治史 (大正時代)
[ 要点 ]
◆第一次護憲運動のスローガンは、閥族打破・憲政擁護である。
◆第一次護憲運動の指導的政治家は、立憲国民党の犬養毅、立憲政友会の尾崎行雄である。
◆第二次護憲運動は、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の護憲三派によって行われた。
◆大正デモクラシーの精神的支柱となったのは、吉野作造の「民本主義」である。
社会 日本政治史 (大正時代)
● 大正時代年表
1912年 友愛会創立
1913年 大正政変(第一次護憲運動)
1915年 二十一箇条の要求
1917年 金輸出禁止、石井・ランシング協定
1918年 シベリア出兵、米騒動。、原内閣成立
1920年 日本社会主義同盟結成
1921年 友愛会を日本労働総同盟と改称、
ワシントン会議で四カ国条約に調印
1922年 九カ国条約・海軍軍縮条約調印、全国水平社・日本農民組合
日本共産党結成
1924年 第二次護憲運動
社会 日本政治史 (大正時代)
1、政党内閣
1918年、寺内内閣が米騒動で総辞職すると、代わって同年、立憲政友会の総裁原敬を首相とする初の政党内閣が成立する。
平民宰相とよばれるものの、普通選挙や社会政策の実施には消極的。高等教育機関の拡充、鉄道・通信施設整備を進めるが、1920年の恐慌によって挫折。
1921年、原敬首相は暗殺される。
原内閣に代わって、政友会総裁の高橋是清が内閣を組織するが短命に終わり、ついて海軍大将加藤友三郎が内閣を組織する。
2、社会運動と普通選挙
(1) 社会運動
1912年、労働者階級の地位の向上と労働組合の結成を目的に友愛会が組織され、全国組織として急速に発展した。
1921年には日本労働総同盟と改称し、階級闘争主義に方向転換する。また、1920年には第1回メーデーが行われた。小作争議の頻発し、1922年に全国組織として日本農民組合が結成された。
1918年、吉野作造は黎明会を組織し、知識層を中心に影響を与えた。1920年には日本社会主義同盟が結成された。
婦人運動では、婦人参政権の要求などが新婦人協会などによって進められた。また、部落解放運動も活発化し、1922年に全国水平社が結成された。
1922年7月には日本共産党が結成された。
(2) 普選運動
1919年から20年にかけて普選運動が盛り上がった。第二次山本内閣のもとで普通選挙制導入の準備が進められたものの、関東大震災を機に起こった虎ノ門事件のために内閣は総辞職し実現しなかった。
3、護憲三派内閣
1924年、清浦圭吾内閣が成立すると、憲政会・立憲政友会・革新倶楽部は、「超然内閣」に反対し、憲政擁護運動を起こした(第二次護憲運動)。
政府は議会を解散するが、総選挙で護憲三派の圧勝に終わり、清浦内閣は総辞職した。
代わって衆議院第一党の憲政会総裁の加藤高明が連立内閣を組織した。
加藤内閣は、協調外交を基本とし、1925年に普通選挙法を成立させた。これにより満25才以上の男子は衆議院議員の選挙権を持つことになった。
しかし、加藤内閣は、一方で治安維持法を成立させ、国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社を禁止した。
4、第一次世界大戦とワシントン体制における協調外交
(1) 日本の中国進出
イギリスのドイツ参戦を機に同盟関係にあった日本もドイツに宣戦し、中国におけるドイツの根拠地青島を占領した。
1915年、第二次大隈内閣は、中国の袁世凱政府に二十一箇条の要求を突きつけ、大部分を承認させた。ついて寺内内閣も権益の拡大を図った。
1916年には、第4次日露協約を締結し極東における特殊権益を相互に再確認し、1917年、アメリカと石井・ランシング協定を締結し、中国の領土保全・門戸開放と日本の中国における特殊権益の承認を確認し合った。
対ロシアでは、ロシア革命により日露協商が消滅し、日本はアメリカのチェコスロバキア軍援助の提唱に応じてシベリア出兵を行った。
(2) パリ講和会議
1918年第一次世界大戦が終了すると、1919年バリで講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約が調印される。
ドイツは植民地を失い、本国の一部割譲と巨額の賠償金を課せられる(ヴェルサイユ体制)。
また、アメリカ合衆国ウィルソンの提唱により、国際連盟の設立が決められた。
中国でも、1919年山東半島の返還を求める運動(五・四運動)が起きる。朝鮮でも同年3月1日、独立運動が起きる(三・一運動、万歳事件)。
5、ワシントン体制
1921年、ワシントン体制が開かれ、米・英・仏・日の4カ国条約(太平洋の平和に関する条約)が締結され、これによって日英同盟が破棄された。
1922年には、九カ国条約(米・英・仏・日・伊・ベルギー・ポルトガル・オランダ・中国)が締結され、中国の領土と主権の尊重、中国における各国の経済上の機会均等などが約束された。
さらに同年、米・英・仏・伊・日の5カ国の間で海軍軍縮条約が結ばれ、主力艦の保有量が制限された。
このような一連の列国間の協調をワシントン体制という。日本は、外相幣原喜重郎のもとで協調外交を進めた(幣原外交)。