社会 日本政治史 (江戸時代)


[ 要 点 ]


寛政の改革を実施したのは、松平定信である。

寛政の改革の主な内容は、寛政異学の禁、囲い米の制、棄損令、帰農令である。

享保の改革を実施したのは、徳川吉宗である。

享保の改革の主な内容は、公事方御定所、足高の制、目安箱設置。定免法、上げ米の制である。

天保の改革を実施したのは、水野忠邦である。

天保の改革の主な内容は、人返しの法、株仲間の解散、上知(あげち)令である。


江戸時代年表

●江戸時代年表

1603年  徳川家康征夷大将軍になる
1614年  大阪冬の陣
1615年  大阪夏の陣豊臣氏滅亡
       武家諸法度禁中並公家諸法度
1635年  日本人の海外渡航・帰国禁止
1637年  島原の乱
1651年  由井正雪の乱
1685年  生類憐れみの令

1716年  徳川吉宗、将軍となる
       享保の改革始まる
1742年  公事方御定書
1767年  田沼意次、御用人となる
1787年  松平定信、老中となる
       寛政の改革が始まる
1789年  棄損令

1825年  異国船打払令(無二念打払令)
1828年  シーボルト事件
1837年  大塩平八郎の乱
1841年  天保の改革、株仲間の解散令
1843年  人返しの法、上知令
1853年  ペリー浦賀に来航
1854年  日米和親条約
1858年  日米修好通商条約安政の大獄
1860年  桜田門外の変
1863年  薩英戦争、八月十八日の政変
1864年  禁門の変、第一次長州征伐
1866年  薩長連合
1867年  大政奉還王政復古の大号令、小御所会議


日本政治史 (江戸時代)内容

1、幕藩体制

1615年、幕府は大名の居城をひとつに限るという一国一城令を出し、さらに大名に対する根本法典である武家諸法度を発布して厳しく統制した。

3代将軍家光の時代には、参勤交代を義務づけて将軍と諸大名の主従関係が確立した。

将軍と大名が土地と人民を統治する支配体制を幕藩体制という。


2、幕府の統治機構

(1) 幕府の財政

幕府の組織は、将軍を頂点に、将軍直属の家臣団である旗本・ご家人・諸大名で構成される。

(2) 幕府の機構

幕府の中央の職制は、幕政を統轄する老中(臨時に大老を設置)、老中を補佐する若年寄、大名を監察する大目付、旗本を監察する目付、寺社奉行町奉行勘定奉行の三奉行、評定所が設置された。

地方においては、京都所司代が西国の大名の監視にあたり、直轄地には郡代、代官が設置された。


3、鎖国制度

厳格な主従関係を強いる幕藩体制において、キリスト教は相容れることができず、幕府は禁教政策をとった。さらに貿易港を制限し(1616年ヨーロッパ船の寄港地を平戸・長崎に制限)、日本人の海外渡航と帰国を禁止した。(1635年)


4、政治改革

(1) 正徳の治

6代将軍家宣、7代将軍家継の時代に朱子学者、新井白石の建議を受けて行われた政治を正徳の治という。

新井白石は、正徳小判を作り物価騰貴の防止や海舶互市新令を発し貿易額を制限し、金銀の流出を防止しようとしたが実情には合わず社会混乱を招いた。

(2) 享保の改革

8代将軍吉宗により、将軍専制体制の確立、財政再建、法整備等がすすめられた。これを享保の改革という。

財政面では、具体的には倹約令により支出を抑え、上げ米(大名に臨時に献上させる)を実施した。さらに定免法(年貢率を収穫高に関係なく一定にする)を実施し、年貢の引き上げを図り、新田開発による米の増産を奨励した。

都市政策においては、町火消しを組織し、目安箱を設置し、小石川養生所をつくった。

法整備においては、公事方御定書、相対済まし令を制定した。また、足高の制を実施し、身分の低いものでも有能な人材の登用を可能にした。

(3) 寛政の改革

11代将軍家斉を補佐した老中松平定信は、享保の改革を模範とし、改革を押し進めた。これを寛政の改革という。

田沼意次時代のの腐敗政治を退け、囲米、七分金積み立て、人足寄場の設置、棄損令、寛政異学の禁、官立の昌平坂学問所の設置などの諸政策により、財政再建、士風の引き締めを図った。

一時的に改革は功を奏したものの、極端な緊縮財政と厳しい統制が反感を買い、朝廷問題(尊号一件)を機に定信は失脚した。

(4) 天保の改革

12代将軍家慶の時代に、老中水野忠邦が緊縮と風紀粛正をすすめた改革を天保の改革という。

忠邦は、享保寛政の改革にならい倹約令、人返しの法(強制的帰農策)、株仲間の解散などの諸政策を実施した。さらに上知令を試みたが、諸大名や旗本の反対にあい失脚した。


5、幕府の滅亡

1853年、ペリーの浦賀来航、翌1854年の再来航の威力に屈し、日米和親条約、1858年には日米修好通商条約が締結される。

大老井伊直弼は開港に反対する朝廷を押し切って日米修好通商条約を締結し反対派を弾圧(安政の大獄)するが、桜田門外の変で暗殺される。

その後、長州藩の下級武士を中心とする尊王攘夷派と薩摩藩を中心とする公武合体派が対立する。尊皇攘夷派は、八月十八日の政変(長州派の公家三条実美らが追放される)、禁門の変蛤御門の変)で打撃を受けるが、第二次長州征伐を機に開国に方向転換した薩摩藩と軍事同盟(薩長連合)を結び、倒幕へ進むことになる。

1887年土佐藩山内豊信が15代将軍慶喜に建議し大政奉還が実現する。