フランスの憲法制定

 国王が8月の法令の裁可を遅らせ、パリの食糧事情が悪化したことで、10月4日〜5日にまた民衆の行動が行われます。国王にパンを要求するパリの中央市場、場末街(ばすえがい)の女性達はこの日パリからヴェルサイユへ行進し、宮殿に乱入、国王一家をパリに連れて帰りました。このとき、国民議会もパリに移り、国王と議会はパリの革命的な民衆の監視下におかれることになりました。
 この後、91年宮廷と議会の間の調停にたっていた穏健派のミラボーが病死すると、革命の急進化に不安をもったルイ16世とその一家は、6月20日パリを脱出し、王妃マリーアントワネットの母国オーストリアの亡命を計画し行動をおこします。しかい、国境近くのヴァレンヌでこの逃亡は発覚し、国王一家はまたパリに連れ戻されます(ヴァレンヌ逃亡事件)。このことは、民衆にさらに国王への不信を強める原因となりました。
 このような、急進的な共和主義者の行動を恐れた議会は、憲法制定による秩序の維持を急ぎました。そこで、91年9月、立憲君主制を定めた憲法が制定されました。
 この憲法で、王権は縮小されたましたが、議会が制定した法案の裁可を一定期間拒否をすることができるという「停止的」拒否権をが王に残されました。
 この中で、市民はただ市民権だけを享受する受動市民と、政治に参加する資格を与えられた能動市民に分けられることになります。そして、一定の資産を有する市民のみが能動市民として選挙権を持つことになりました。


参考文献


フランス人権宣言
ベルサイユのばら
フランスの市民革命関連書
理解を深める文献
日本国憲法関連書



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